菅義偉(すがよしひで)さんの父親は菅和三郎(すがわさぶろう)さんというイチゴ農家です。
秋田県の雄勝町(現在の湯沢市)でイチゴを育てていたんですね。
現在では「秋の宮イチゴ」が名産となっていますが、名産にまで育てたのは他でもない菅義偉さんの父親です。
そのためイチゴ農家の間では有名で、地元の湯沢市のイチゴ農家の間では英雄的存在。
そして、過去は満州鉄道の職員だったという意外な一面があります。
ということで、今回は菅義偉さんの父親である菅和三郎さんのイチゴ農家伝説について特集をします。
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菅義偉の父親「菅和三郎」は半生をイチゴに捧げた
菅義偉さんの父親の菅和三郎さんはイチゴ農家です。
終戦までは満州鉄道の職員だったのですが、日本に引き上げてからは生涯をイチゴに捧げました。
1918年頃に生まれてから2010年に亡くなるまでの半分以上はイチゴ農家としての人生でした。
菅和三郎さんがイチゴを生産していたのは秋田県の雄勝町(現在の湯沢市)です。
しかし、雄勝町は元からイチゴの生産が有名だったわけではありません。
イチゴを雄勝町の名産にしたのは菅和三郎さんなんです。
元々は「あきたこまち」の生産がさかんだった土地ですが、目をつけたのは米ではなくイチゴ。
イチゴに目をつけてからはひたすらイチゴの生産に打ち込み、いちご生産集出荷組合を設立。
40歳で組合長に就任してから92歳で亡くなられる52年もの間組合長を続けていたんですね。
それもそのはず!
名産のブランドイチゴ「ワサ」は菅和三郎さんが中心となって開発した品種です。
農家の1人では収まらず雄勝の名産品をイチゴに仕立て上げた、いわば英雄のような存在なんですね。
官房長官とは違い、早口でよく話される方です。ただ、かなり秋田の訛りが強いので、私には何をおっしゃっているのか、さっぱりわかりませんでした
ちなみに、秋田弁訛りが強いため普通の人では聞き取るのが難しい様子。
菅和三郎のイチゴ農家物語
父親の菅和三郎さんはただのイチゴ農家ではありません。
イチゴ農家界のレジェンド的存在です。そう言われるまでの詳細をご紹介していきます。
①稲作だけでは先細ると「イチゴ」の生産に尽力
元々は満州鉄道の職員だった父親の菅和三郎さん。
第二次大戦の敗戦に伴って家族と共に日本に帰国し、秋田県の雄勝町に根を下ろしました。
雄勝町は「あきたこまち」が名産ですが稲作には手を出しませんでした。
菅の父和三郎は、終戦から間もなく、「これからは米だけでは食っていけない」といい、いちごの栽培を始めた。地元のこまち農業協同組合に対抗し、いちご生産集出荷組合を創設。もっぱら地元の「秋ノ宮いちご」の生産に熱を入れた。
稲作だけでは先細りしてしまう、と未来を想像したのでイチゴの生産に精を出したんですね。
そのため、前述したように40歳に「いちご生産集出荷組合」を設立してイチゴ生産に全力を注ぎます。
和三郎さんは、『稲作農業だけでは、生活が豊かにならない。もっと高収入の作物に切り替えないといけない』というのが口癖でした。
満鉄時代は高収入だったためか稲作だけではダメだと考えたのでしょうか。
元からイチゴが好きだったと言うよりは「いかに先細りしないように生きていくか」が根底にあったのかもしれません。
②イチゴに目をつけて「ニューワサ」を開発
イチゴに目をつけた父親の菅和三郎さん。
ただイチゴを育てるだけでなく「どうすれば売れるようになるのか」も考え抜いていました。
- 出荷時期をずらす
- 品種改良をほどこす
など、試行錯誤を重ねて秋田県の雄勝町の名産品をイチゴにしたのです。

出典:Facebook
湯沢は全国的に知られるいちごの産地ではなかったが、豪雪地帯の寒冷地ゆえ、出荷を遅らせた。これが大成功する。本人の名前から付けた「ニューワサ」というブランドで秋ノ宮いちごを売り出した。
農家としてではなく経営者としての手腕も抜群だったんですね。
イチゴは11月~5月に出荷するケースが多いのですが、寒冷地であることを利用して初夏に出荷をしていたようです。
地産地消ではなく東京や大阪、四国や九州など全国的に出荷をすることで知名度が大きく上がりました。
ちなみに「ニューワサ」のワサは「わさぶろう」のわさです。
ベテランの東京の市場関係者なら、たいてい今でも『ワサ』というと和三郎さんがつくったいちごだと覚えています。私が議員になって築地の卸売市場に市場調査に行ったときなどは、専務さんが応対してくれてね。そのときも和三郎さんの話題が出て、相当有名なんだな、と感心しました。
東京の市場関係者の間でも菅和三郎さんの名前を覚えている人はいるようです。
秋田から遠く離れた地でも名が語り継がれるほどの人物でした。
そのため、菅義偉さんが農家の跡を継がなかったのは非常に勇気が必要な決断だったのかも。
「ニューワサ」ってどんなイチゴなの?
アメリカ種のいちごでしっかりとした果皮と酸味が特徴の「ワサ」
引用:内閣官房長秘録 第一章 秋田の農家に生まれて
父親の菅和三郎さんが中心になって開発した「ニューワサ」は果皮と酸味が特徴とのこと。
- 地元ではあまり出回らない
- 秋の宮イチゴは主にデザート用で関東向けが多い
ので関東圏でイチゴを食べると、知らない内にニューワサを食べているのかもしれません。
また、引用元の「内閣官房長官秘録」によれば2014年時点でも秋田県で6月から7月にかけて出荷されています。
数十年もの間生産が続いているようですね。

出典:Facebook
また、湯沢市役所のFacebookに2018年7月10日の投稿では「ニューワサ」のダンボールが撮影されています。
現在も秋田県の大地でニューワサは生き続けているようですね。
しかし、個人で入手するのは難しいかもしれません。
菅和三郎が満州鉄道の職員時代は金持ちだった
話はイチゴ農家になる前の菅和三郎さんに戻ります。
元々は満州鉄道の職員として働かれていました。
満州にある満州鉄道の権利は、第二次大戦中までは日本が保有していました。
満鉄ではものすごく待遇がよかったらしく、官舎があって、お手伝いさんがいたとか、そういう話はよく聞きました。満鉄でそれまで最高の幸せな家庭を築いてきたのに、戦争で負け、一転して引き揚げてくるときは大変だったらしい。姉二人は向こうで生まれましたから、一緒に帰ってくるときの話とか、それは聞いています。ただ、引揚者はたいていそうでしょうから
菅義偉さんは父親の菅和三郎さんが満州鉄道にいた頃についてこう語りました。
当時の満州鉄道は超優良企業だったようで、
- 満州鉄道に入れば将来が約束されている
- 給与は日本で働く時の3倍
などの逸話が残るほどなんですね。
田伏さんは技術者として鉄道の保守・点検などに携わった。給与は、寒冷地手当など入れると約100円。北海道で働いていた時の3倍近くあった。
引用:AERA.dot
給与が3倍というのは実際に満州鉄道で働かれていた田伏正七さんが2017年に語ったことです。
一旗上げるために満州に渡る若者もいたくらい、当時の満州鉄道は夢が詰まっていたとか。
ハノイ領事の「菅和三郎」は菅義偉の父親とは別人?
菅和三郎さんは満州鉄道で勤める前は台湾総督府にいたという情報があります。
菅義偉の父親って満鉄の官僚だもの。満州の前は台湾総督府にいて調査嘱託員やってた。そこで仏領インドシナの調査事務やってたりしてね。台湾時代には月に400円(大卒初任銃50円の時代に)貰ってた人なわけで。戦後は郷里でいちご組合の組合長やったり町会議員やったりしていた所謂地方の名士ですがな https://t.co/aWKY9bNiGg
— ガイチ (@gaitifuji) September 2, 2020
しかし、その台湾総督府にいた菅和三郎さんは全くの別人のようです。
台湾総督府にいた菅和三郎は1895年生まれの兵庫県人です。秋田出身の菅和三郎とは別人だと思います https://t.co/ZXugSZJen4 pic.twitter.com/kvoB1oXKlV
— FreeLeaf (@FreeLeaf) September 3, 2020
台湾総督府にいたと仮定すると菅和三郎さんは20代か30代です。
二十九日門司に帰着したハノイ領事菅和三郎氏は近く議定さるべきわが対仏印度支那の特恵関税問題に対する同地方の意向について語る
引用:神戸大学附属図書館
しかし、1925年6月30日の大阪朝日新聞にはすでに菅和三郎さんの名前が登場しています。
同一人物だと7歳でハノイ領事になるトンデモ事態なので別人で間違いありません。